「幻魚」と書いて、ゲンゲと読みます。ありがたそうな字面ですが、もとの名前の意味は正反対でした。ゲンゲは「下の下」。富山湾の底からあがるこの深海魚は、いちばん低い呼び名から幻の字へ、名前だけで出世してきた魚です。
「下の下」と呼ばれた魚
ゲンゲを専門に狙う漁は、ありません。甘えびなどを狙う底びき網に、目当ての魚に混じってかかる——いわゆる外道です。姿も、売り物らしくありません。水深200mより深いところにすみ、体長は20cmほど。全身が分厚いゼラチン質に覆われ、ぬるりと白く、魚というより水のかたまりのようです。目当ての魚のわきで顧みられることのなかったこの魚を、浜の人たちは「下の下(げのげ)」と呼びました。それが名の由来とされています。
「幻魚」と書き直された
その呼び名が、あるときから裏返ります。当てられた字は「幻魚」。顧みられなかった魚が、珍重される側に転じたのです。ぷるぷるとしたゼラチン質はコラーゲンを豊富に含むとされ、それが再評価のひと押しになりました。今では、漁師が自信を持ってすすめる魚を選ぶ全国の取り組み「プライドフィッシュ」に、「富山湾のゲンゲ」として名を連ねています。氷見の寒ブリが冬の湾の王様なら、ゲンゲはその裏側から出てきた逆転の主役。王様の物語をひっくり返すと、この魚になるのです。
汁の椀の中で、真価が出る

漁のある村では、ゲンゲは古くから味噌汁や吸い物の具でした。近年は唐揚げや天ぷら、干物にもなりますが、真価が出るのはやはり汁の椀です。熱い汁の中で、あのゼラチン質がとろりとほどけ、汁に淡いとろみを移します。箸で持ち上げれば身は今にも崩れそうで、口に入れると、つるりと消えたあとに唇へかすかなぬくもりの膜が残る。見た目に驚いた人ほど、この一椀の前で黙ります。
底びき網の季節は秋から春。9月1日に解禁され、翌5月ごろまで続きます。なかでもゲンゲが似合うのは、熱い汁が恋しくなる真冬です。
「下の下」と名づけたのは、浜の人たちでした。そして味噌汁に落として食べ続けてきたのも、同じ人たちです。いちばん低い名前をつけた人たちが、いちばんうまい食べ方を知っていた——幻の字は、あとから追いついてきただけなのです。