
富山市の中心部に建つ複合施設・TOYAMAキラリの最上階。グラス・アート・ガーデンと名づけられたフロアに立つと、現代ガラス美術の大規模な常設展示が、頭上から足元まで光を放っています。外が雨でも雪でも、ここの光は変わりません。ガラスの中で屈折する光に囲まれながら、時間を巻き戻してみましょう。この光の系譜は、300年前の薬瓶から始まっています。
最上階の光から、話を巻き戻す
TOYAMAキラリは富山市ガラス美術館などが入る複合施設で、設計は建築家の隈研吾氏、外観は立山連峰をイメージしたものです。最上階の常設展示は、この街がガラスに注いできた時間の到達点にあたります。では、その時間はどこから始まったのか。さかのぼっていくと、美術でも工芸でもなく、薬に行き着きます。
はじまりは薬瓶だった

元禄3年(1690)、江戸城で腹痛に苦しむ大名に富山藩の藩主が「反魂丹」という薬を与えたところ、たちまち治った——富山売薬は、この逸話をきっかけに全国へ広まったと伝えられています。代金はあとでいい、まず使ってもらう。「先用後利」を理念とする富山の薬売りは、全国の家庭の薬箱へ入り込んでいきました。
本題はその先です。明治以降、薬を入れるガラス瓶の製造が富山で盛んになります。戦前の富山駅周辺には、10社を超えるガラス工場があったとされます。この街にとってガラスは、芸術である前にまず産業でした。薬瓶の透明な壁こそが、のちの「ガラスの街」の最初の一枚だったのです。
工場の記憶を、学校と工房が継いだ
戦後、ガラス産業は衰えていきます。けれども富山市は、その記憶を「ガラス工芸のまちづくり」として引き継ぐ道を選びました。起点は1985年、市民大学に開かれたガラス工芸コースです。1991年には、公立では全国唯一のガラス作家養成機関・富山ガラス造形研究所が開設され、1994年には作家の制作拠点となる富山ガラス工房が整備されました。学ぶ場所と、作る場所。産業として消えかけたガラスは、人を育てる仕組みとして、この街に植え直されたのです。
2015年、系譜が美術館になった
そして2015年8月、まちづくりの集大成として富山市ガラス美術館が開館します。薬瓶という実業に始まり、教育の場ができ、制作の場ができ、最後に鑑賞の場がそろいました。300年をかけて、実業・教育・制作・鑑賞という四つの段階が、一本の線につながったことになります。
最上階の光のフロアへ戻りましょう。ここで屈折している光は、ある日突然この街に降ってきたものではありません。薬売りが全国へ持ち歩いた小さな瓶から、教室と工房を経て、美術館の展示室へ。雨の日の行き先としてこの建物に入った人も、最上階に立てば、300年ぶんの光の中にいることになります。