哀しさの正体は「途切れない音」
なぜ、おわらはあれほど哀しく聞こえるのでしょうか。唄のせいでも、夜のぼんぼりのせいでもありません。正体は胡弓——それも、この楽器の音が「途切れない」ことにあります。
三味線は撥で弦を打つ楽器です。鳴った瞬間がいちばん大きく、あとは減衰していく。音の輪郭がはっきりしていて、リズムを刻むのに向いています。胡弓は姿こそ三味線に似ていますが、鳴らし方がまるで違います。撥ではなく弓で弦をこすり続けて鳴らす、バイオリンと同じ仕組みの和楽器です。こすっているあいだ音は減衰せず、息の長い持続音になります。
太鼓と三味線が刻む拍の上に、この切れ目のない音がゆるやかにかぶさります。点の音楽の上を、線の音が漂っていく。すすり泣きにも風の音にも聞こえるあの哀調は、旋律の悲しさである前に、まずこの音の構造がつくっています。
路地では、姿より先に音が来る
持続音は、途切れないぶん遠くまでよく通ります。夜の八尾を歩いていると、まだ誰の姿も見えないのに、胡弓の音だけが先に角を曲がって届くことがあります。石畳の坂と土蔵の壁に挟まれた狭い通りでは、音の出どころが読みにくく、近いのか遠いのかさえ確かめながら歩くことになります。音を頼りに坂を上り、ようやく編笠の列に行き合う——町流しとの出会いは、たいていこの順番です。
なお胡弓は湿気と雨に弱く、雨が降ると楽器を守るために演奏が止まります。生の音に出会えるかどうかは、その夜の天気と偶然しだいです。だからこそ、すぐ先の暗がりから弦の震えがじかに届いた瞬間は、録音では代わりのきかない記憶になります。おわらの哀調は、探して見つけるものではなく、夜のまちで向こうからやって来るものです。